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訪問診療医の立ち位置

 訪問診療は、患者さんの話を聴くことから全てが始まります。

 何に困っていて、どうしたいか?

 どんなことを考えながら生活しているのか? 気がかりなこと、心配なこと。何かやりたいことがあるか? 何を生活の楽しみにしているか? 出身地や両親の話、子供の頃の思い出etc。本人の考えや気持ちを聞きながら、できることの中で、最善の方法を一緒に考えます。

 人は、少しでも改善している、成長している実感をもてれば、そこに希望を見出すことができるようです。少しでもいいから、その過程の役に立つことが自分の役割だと思っています。

 

 けれども、神経難病のような少しずつ病状が悪くなっていく病気の場合、なかなか医療で役にたてることが少なく、自分が関わる意義が見えにくくなることがあります。

 体調が良く、リハビリの効果が感じられるときは良いのです。病気の進行とともに動いた手足が動かなくなるとか、食事が飲み込みにくくなったり、痰がらみで日常生活を気持ちよく過ごすことができないなど、じわじわと出来ることができなくなると訴えられても、薬やリハビリでも改善することは難しい場合があります。そんなときは、ただ気持ちを聞いて受け止めることしかできません。「出来ることに意識を向けよう」などと言うのだけれど、本人の心にささらない言葉は、なんの役にも立ちません。増して自分の病気の進行を受け入れられない状態のときは、尚更です。そんな言葉より、介護士さんたちのユーモアや気遣い、気持ちの良い介護の方が何倍も頼もしいでしょう。

 そんなときも「役に立たねーなー、俺」と、心の中で呟きながら、それでも患者さんの気持ちを少しでも理解しようと努力し、無力感の中であがき続けるのが自分の仕事だと思っています。

 実は、こう思えるようになったのは副院長のおかげです。

 昔の自分は、自分が役に立つパターンにはまらない患者さんがいると、自分の正当性を主張しだしていたのです。そんなとき、副院長に言われました。

 「そうやって医者は自分の都合にいい患者にだけいい顔をして、都合の悪い患者を切ろうとするんだよ」この言葉を受け取るのは辛かった。でも、本当にその通りだと思いました。

 専門外来の医者ならば、それでも良いのかもしれませんが、私は訪問診療医。大切なのは、患者さんのそばにいて、役に立たなくてもあきらめずに出来る限りのことをする。「役に立たない自分」は、自分の一部で全てじゃないと自分に言い聞かせて、それでも自分がそばにいる意味を見出す努力を続ける。訪問診療に限らず、辛い障害と向きあわなければならない人たちは、こうした心の葛藤から逃げてはいけないのだと思います。(自分にも言い聞かせる意味で書いています)