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全人的医療ワークショップに参加してみた

 「全人的医療」という言葉を聞いたことはあるだろうか?病気を診るのではなく、人全体を診て医療を行うことらしい。どこか患者さんを見下げている気がして、好きな言葉ではないのだが、内科学会でワークショップを開催するとのことで参加してみた。

 ワークショップの中で、患者さんを治してあげるかのような上から目線の話は一切なかった。事前にもらっていた資料には、全人的医療では、患者さんとの対話を通して、患者さんは自らを語りながら、自分を振り返り、生きる意味を見出すに至ると書いてあった。まるで開業当初に自分の文章のようで歯痒い思いもしたが、決して独りよがりではない熱い思いが込められているようで、不快ではなかった。

 

 ワークショップの中で、医者役と患者役に分かれて診療の一コマを演じる機会があった。自分も患者役をやってみたのだが、今まで患者さんに言われた言葉が走馬灯のように浮かんできた。設定された疾患は、線維筋痛症。原因不明の治療困難な痛みが続く病気だった。家の中で、トイレに行くのも這っていくような生活を続けながら、外来にやってきた一コマという設定の中での会話をした。

 初めは、患者さんの細かな状況もわかっていないのに、演じるって言ったって無理があると思ったが、やってみると、びっくりするくらい自然に言葉が湧いてきた。

 まず思い浮かんだのは、膵臓がんで痛みがコントロールできていない患者さんの言葉。「24時間痛みに襲われていて、何のために頑張らなければならないか分からない」という言葉だった。普段の診療ならば、麻薬などを用いて、コントロールできない痛みに遭遇することは滅多にないが、ワークショップでの症例に限っては、何をやっても治療がうまくいかないということだったので、相手役の先生は、本当に困っていた(治療方法という武器を持たずに患者さんの前に出ることは、本当に辛いことだ。これは、医者じゃないとわからないかもしれない)「もう頑張ることが難しくて、最悪のことを考えずにはいられない。早く楽になりたい」と、続けた。すると相手の先生は、「役に立てなくて申し訳ない」と本当にすまなさそうに私に声をかけてくれた。この言葉の中に優しさを感じた。苦しんでいる自分の言葉をまっすぐに受け入れてくれていることが、嬉しかった。すると自然に「先生が悪いんじゃないでしょ?そんなこと言わないでいいよ」と言葉がでた。自分の苦痛から逃げずに、向き合ってくれることが、こんなにも支えになるものなのだと思った。普段、自分達がやっていることには、考えていた以上に意味があるのかもしれないと思った。

 

 自分が役に立たないと思いながらも、相手から逃げずに自分に向き合ってくれることって、一つの愛情なのではないかと思う。簡単なことじゃないと思う。

 改めて自院のホームページを眺めると

「どんな辛い状況の中でも、手を離さずに一緒に生きていける存在でありたいと思っています」などと書いてある。自分で書いたのだが、昔の自分にエールを送りたくなる。

 

 医者になりたてのときは、死にそうな患者さんに適切な処置をテキパキとこなし、見事に回復させる医者に憧れていたけど、ある程度できるようになると、それらの手技は当たり前のルーチンワークにしか思えなくなった。循環器科医ならば出来て当たり前のこと。でも、こうして精神的な側面から捉え直すと、大切なのは困難な状況のなかでも、患者さんの役に立つために患者さんと向き合い、立ち向かう姿勢こそが大切なのではないかと思った。

 

 訪問診療をしていて、こうした精神的な姿勢を最も問われるのは、神経難病の人たちだ。

 薬が奏功しない事が多く、何のために診察なのか自分に説明できない。

 同じ病気であっても、その病気の意味は人それぞれ違う。

 

 今まで出会ってきた人たちを見ていて思うのは、どんな病気になっても、幸せそうに生きている人の側には、一緒に生きてくれる人がいる。けれども、一緒に生きている人がいても、嘆き続けて可愛そうな自分を訴える続ける人もいる。幸せかどうかなんて、そもそも主観だから当然といえば当然なのだが、今の自分には、嘆き悲しむ人の気持ちを変えることはできない。生活をともにして一緒に生きることもできない。出来るとすれば自分の家族だけだ。結局、医者として出来るのは、悲しみを受け止めて側にい続けることしかない。

 そしていつか、少しでも状況を改善するための努力を一緒に出来る日が来ると信じるしかない。

 家族にはなれない医者としてできることとは、

 よりよい明日を信じ続けること、それが大切なのではないかと思う。

 そう信じる人が側にいることが、やがて生きる意味になっていく、そういう物語を紡いでいきたい。